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                                     忘れ去る伝統柄巻技法(続)

幻の小倉裂(きれ)(木綿)
私が柄巻師として刀剣界に入ったのが(1973)昭和48年頃、柄を巻く糸と言ったら常組糸と蛇腹糸しか有りませんでした、違った糸巻は時代拵に付いている物には沢山見ることが出来ましたが、今でも糸屋さんにはありません。日本刀講座(11巻外装編) 柄巻師三世柄平 山口修吉が書いた所載の中に小倉裂で巻いた柄巻があると書いています、どんな柄糸か、探し続けて50年、解ったことは小倉裂とは小倉織で製造した小倉木綿で昭和初期に途絶えていました。小倉木綿で巻いた柄巻は個人はもとより美術館、博物館には有りませんでした。しかし柄平、さんの書いている所載には、糸に生漆、蠟色漆、石地塗り等、様々な塗で加工されると書いていますので、現存する小倉木綿で巻いた柄巻、拵は在るのではないでしょうか。

小倉裂「木綿」
豊前小倉藩(北九州市)の藩主、小笠原忠苗時代(1800年、)前後から作り続けられてきた小倉織りは極めて良質で純白の生綿から紡いだ「小糸」と呼ぶ綿糸を捩り合わせたもので経糸が多く、江戸時代の破れやすかった布地に比べて、大変丈夫であった。又、水につけると布地が引き締まり、更に丈夫になる。良質な綿糸を使用しているため布地に光沢がある事がわかりました。その他の説、隠居後の徳川家康が鷹狩りに出かける際に小倉織りの羽織を着用した遺品が残されていますし、徳川美術館には江戸時代中期(18世紀)の狂言装束として「縞小倉羽織」が保管されています。

小倉織の復活
江戸初期から幕末頃まで続いていましたが寛永2年から3年頃、小倉藩は産業政策のため、小倉織を調査、その後、小倉織を藩の専売制にしたが、これが生産体制を混乱させ、品質が悪化、価格が高騰し、小倉織生産衰退を招いたとされている。幕末になると、政治情勢の影響で商取引が混乱するなど、小倉織の生産も激減。1866年(慶応2年)には丙寅戦争と呼ばれる長州征討が起こり、小倉軍も参加、最終的に自ら小倉城を焼いて、退きながらの持久戦となったため、生産者が離散。一時。小倉織の生産は姿を消し、明治維新後まで衰微した。1893年(明治26年)小倉織復活の気運が高まり、会社設立を準備。小倉織物株式会社が設立された。しかし他県が小倉織りを真似て製造する織物会社が大量生産可能な近代的工場により発展。コストの高い手工業製品の小倉織は苦しい競争を余儀なくされた。又1901年(明治34年)に起こった金融恐慌の余波で、小倉織物株式会社が解散した1911年(明治44年)小倉市は小倉織復活のため業者に支援して来ましたが大正期に入り更に衰微し、その後、昭和初期に途絶えた。
その後1984年(昭和59年)染織家の築城則子が復元。2007年(平成19年)、小倉織を販売する「有限会社小倉クリエーション(デザイン:遊生(ゆうき)染織工房)」が2007福岡産業デザイン賞を受賞した。福岡県が、中小企業地域資源活用促進法に基づき策定している「地域産業資源活用事業の促進に関する基本的な構想」において、北九州市の地域産業資源として小倉織は復活しました。
2013年(平成25年)Webサイトで染織家の築城則子師、私(柄巻師)が知り合い小倉織柄糸の、ことを話しましたが小倉郷土歴史歴にはないとのこと、早速、古書の日本刀講座に小倉裂を用いて柄巻をしたと記載されて居ると説明し、早速、布巻柄糸用として藍染小倉織を試作品として織って頂きました。(藍染小倉織図1)
小倉織柄糸の復元
布柄糸に使用する物は、麻、木綿、正絹等で織った厚めの生地で作った織物が多くその中でも小倉織木綿は経糸が多く、丈夫で強く、手組糸より時間と低価格と言う事で柄巻に多く使用されたようです。
これより築城則子師に織って頂いた藍染小倉木綿で柄糸の仕立て方を述べます。布地は幅30センチ長さ3メータ50センチ(大刀柄八寸)の長さで、裁ち台の上に布地を延ばし幅の端から15ミリの位置にヘラ又はチョークで20㎝間隔に印を付けて行きます。付けた印に物差しをあてロータリーカッタで裁断する。(裁断された布、図2)裁断された布を両面熱融着テープで腹合せに折った内側に入れ、スチームアイロンで(140°~160°)加工すると、約7ミリ幅の紐(柄糸)が出来る。(布柄糸にした写真3)両面融着テープ、他に、のり、布ボンドでも良い、その場合はアイロンで加工された後から接着すると良と思います。
小倉織を柄糸に使用できる物は羽織、帯、学生服、のような少し厚めの生地が良いと思います、柄(がら)とか色で薄物を使用したい場合は21ミリ幅で裁って三枚重ねで7ミリの幅の紐(柄糸)が出来ます。(柄巻に出来る織物写真4)
小倉織で作った柄糸を諸捻巻、諸撮巻で巻きます、その他に幅5ミリ裁った布を腹合せにして2ミリ強幅になり、それを二本組み合わせて蛇腹糸巻の用に組み上げて巻くことも出来ます。(柄巻をした写真5)

あとがき
小倉織、布柄糸は徳川末期頃より盛んになり、巻の上に漆、柿渋等を塗重ね加工して、実用上、常組糸柄に継ぐ丈夫な製作法の一つと思います。その他、柄に巻ける物、籐、竹皮、鮫、桜の皮、琴糸などが在りますが、塗師、彫漆師、布仕立て師、材料の用立て等、すべて柄巻師がしていたようです。現在の私達(柄巻師)ではとうてい覚束ないと思いますが、伝統技法の一つとして次世代に伝承したいものです。
参考資料
◇ 昭和10年4月10日発行
  日本刀講座(11巻)雄山閣 柄巻師 三世柄平 山口脩吉
◇ 上村寿男「郷土経済歴史 小倉織おぼえがき全」
◇ 税田昭徳「研究紀要4 小倉織~ほの再見と」
◇ 外部リンク
  築城則子webサイト
  小倉織ブランド
              四国讃岐支部会員 柄巻師 三谷修史(みたに しゅうじ)