続 ニッカリ青江と京極家

 平成18年の『刀剣美術』7月号第594号に、「ニッカリ青江と京極家」と題して記載頂いた拙文のなかで「ニッカリ青江は京極高次が豊臣秀頼から拝領した」と書きましたが、間違だったことが判明いたしましたのでここに訂正をさせて頂きます。
平成22年秋、丸亀市立資料館学芸員の大北知美様から、ニッカリ青江に関する資料が2点あることを教えて頂きました。そのひとつは、文化8年の奥書がある「若狭国守護歴代禄ヌキ書」(丸亀市立資料館蔵)であり、もうひとつは、幕末に多度津京極家、家臣富井泰蔵が写した富井家文章の中の「京極御系図」であります。この文章二点を、香川県立ミュージアム学芸員の御厨義道様に読み下していただきました。

若狭国守護歴代禄 ヌキ書也

同年(慶長19年、1614年のこと)忠高公、大坂出陣、若洲並びに越前敦賀、江洲高嶋郡、惣人数六千五百余人、小浜発足、秀頼公大坂籠城、常高院殿家康公の鈞命に応じ、駿河に赴き、秀頼公との和睦の事を議す、而して後、大阪(ママ)の城内に入り、則無事に属す、この時秀頼公青江刀一口忠高公に賜う。

京極御系図
別録に、慶長19冬、大坂において、秀頼籠城数日、天下戦の不利を責めるといえども、秀頼と忠高の母常高院故有るに依り、使いのよし事なき再三に及び、則ち忠高を使いとしてこれを遺わす、家康公の命に随い一人入城中、終に無事に属し天下の利有り、死を軽んじ名を重んじる忠功の臣とす、家康公感悦々々、この時秀頼より青江刀「異名ニッカリ」天下の剣たるに依って之を賜う。
以上ふたつの資料からニッカリ青江は慶長19年大坂冬の陣の時、徳川方と大坂方との間に入り、苦心して仲介の労をとり、和解にこぎつけた常高院初とその子忠高に対し、その労をねぎらう意味で、豊臣秀頼が京極忠高に与えたものと判明しました。

(文中の人物像)
常高院初
永禄11年(1568)生、元亀元年(1570)生ともいう、寛永10年(1633)歿。浅井長政とお市の方の次女、京極高次の室、豊臣秀頼の叔母であり、三代将軍徳川家光の伯母。
京極忠高
文禄二年(1593)生、寛永14年(1637)没。京極高次の長男、慶長19年(大阪冬の陣)には若狭九万二千石の領主、寛永14年、参勤交代の途次京都において客死、この時出雲松江二十六万四千二百石の太守。以上、訂正させていただくにつき、いろいろとご教示くださった方々に対し、誌上をお借りしてお礼を申し上げます。        (かわべかついち 四国讃岐支部会員)