一説には最初「羽柴五良左衛門尉長重」と象眼されていたが、長重の代での度重なる失態を恥、重の字を切り落としたというものである。しかし私はこの説に賛成しない。その理由として金象嵌銘の最後の重の字だけを切り落としたものでなく、長の字の半分まで切り落としていることである。父長秀銘であっても、又自身の長重銘であっても長の字は完全に残すはずであり、半分に切り落とすとは考えられない。三回目の磨上げは秀吉の生前(慶長三年より前)から、大阪の陣(慶長十九年)までの間に豊臣家に於いて行われたものである。
福士繁雄先生から教えていただいた資料「京極家重代珥加理刀之記録」(大正7年3月松平頼平稿)には、「長重之ヲ豊臣秀吉ニ献ズ、秀吉宝愛シ名ヅケテ珥加理ト号ス」とあり、この時「一尺九寸九分」に磨上げられたとされる。二度にわたり梅忠寿齊に拵を作らせていることから、豊臣家にあっても大切にされた刀と思われる。その後、この刀が豊臣秀頼から京極家高次に下賜され、京極家の自慢の品として伝来したのである。昭和15年に重要美術品の認定を受け、終戦後、東京都の登録審査で、「一尺九寸九分〇厘」の脇指として登録され、その後京極家を離れたものである。
ニッカリ青江の現状
長さ 60.3センチ、反り 1,2センチ、茎長さ16,3センチ、鎬造、三ツ棟、身幅広く、元先の幅差開かず、南北朝の太刀を擦上げとはっきり判る姿であり,重ね薄く大切先でいかにも物切れしそうな態であり、伝説の由来を垣間見るような気がする。鍛えは小板目に小杢交じり、所どころに板目肌現れる。表裏共に映りが立つ、刃文は中直刃調に小さく浅いのたれ交じり足入る、刃縁細くしまり匂い口明るい、帽子はのたれ込み先細く長く突き上げ深く返る、樋先のあがった棒樋を掻き通す。鑢目切、目釘孔三、茎尻切り、茎表に金象嵌銘「羽柴五郎左衛門尉C」以下切り、裏茎尻にわずかに金象嵌の痕跡が残る。三個の目釘孔のうち、一番上の孔と中の孔の間隔は四,六センチ、中の穴と下の孔の間隔は四,九センチとなっており、生孔は切り落とされて残ってないものと思われる。
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