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ニッカリ青江の寸法について

光徳刀絵図には「御物にっかり二尺」と書かれてあり、享保十九年の京極家道具帳には一尺九寸九分三厘となっいる。七厘(約二ミリ)の差はどのように考えたら良いか。
○ 光徳刀絵図が画かれたときの寸法が厳密でなかったものか。
○ 享保十九年までの間に研ぎ減ったものか
○ 京極家に於いて「ギリギリ二尺未満」となるように区を送ったものか
○ その頃すでに一尺九寸九分だったのか
小笠原信夫先生が「日本の美術T・日本刀の拵」の中に書かれた小さ刀の説明によると、「小さ刀は直垂、狩衣、大紋、布衣、素袍、長上下ニモ帯之、製造ハ各家ノ風アリ。凡身長サ壱尺五・六寸ヨリ七・八寸迄ニテ、製造方刀ト同様ナレ共短キヲ似テ名付ル」とあり、例外として紀州徳川家「相模国行光御小サ刀」は八寸四分であり、「仙台伊達家刀剣帳」に、「藤嶋友重短刀」(小サ刀と同意)一尺九寸一分との記載があり、時代や各家で呼称の仕方が相違する、と記されている。

 享保十九年京極丸亀藩道具帳に次の記載がある。
 にっかり御小刀 磨上 長さ壱尺九寸九分三厘
            中心ニ金象眼
 1,E金上下無垢
 1,切羽金無垢
 1,鵐目金
 1,柄白鮫縁赤銅
 1,鞘黒塗
 徳川盛世録に小サ刀が使用される装束が示され
 着用の機会が記されている。
 正月元旦、二日 大紋
 正月三日     熨斗目長上下
 正月七日     熨斗目長上下
 三月三日     熨斗目長上下
 五月五日     染帷子長上下
 六月十六日    染帷子麻上下
 七月七日     白帷子長上下
 十月亥日     熨斗目長上下


その他、不時の装束着用の機会として、将軍宣下当日、紅山参詣、御用召、婚礼、葬礼等が誌されていて、江戸城内で多くの機会に小サ刀が使用されていたことが判る。
 京極家には、名刀が数多く伝わっている。この中、短刀・京極正宗、(豊臣秀吉より拝領)、短刀・粟田口吉光(権現様より拝領)の二口とニッカリ青江を合わせた三口が京極家の自慢の品であったと思われる。この他にも長光太刀、守家太刀、畠田真守太刀、景光太刀、来国光刀、左弘行刀、元重刀、青江直次刀等、綺羅星の如くで枚挙にいとまがない。
 京極家自慢のニッカリ青江を殿様が公の場で身につけることを希望し、その頃すでに2尺未満の長さだったニッカリ青江を小さ刀として使用したものか、または徳川時代の比較的早い時期に京極家に於いて小さ刀として使用する目的で現在の姿に区を送ったものか今となっては判断のしょうがない。ただここで言えることは、諸大名が公辺において身に付けた小さ刀としては、江戸時代を通じ一番の長さであったことは間違いないであろう。享保名物帳にも記載され、享保年中にニッカリ青江を八代将軍吉宗公の台覧に供したという記録も京極家に残っている。

 余談
 ニッカリ青江が丹羽家に於いて磨上げられた時、象嵌された文字について、羽柴五良左衛門尉長秀なのか、羽柴五郎左衛門尉長重だったのかを考えてみる。羽柴秀吉は天正十四年に豊臣朝臣の姓を賜ったとき「更にこれを諸臣に賜い羽柴の氏を許す」とあり。前田利家を始め多くの大名が豊臣の姓と羽柴の氏を名乗っている。名乗らなっかたのは、徳川家康、長曽我部元親などの少数の大名に過ぎない。このとき、丹羽五郎左尉門長重は諸臣と共に姓氏を賜り「松任侍従豊臣長重」となり羽柴氏を名乗る。丹羽長秀については天正十一年に羽柴氏を名乗ったと書かれたものを読んだような記憶があり、いろいろ調べてみたがはっきりそれを示す資料を発見することが出来なかった。長秀は秀吉が豊臣姓を賜る前年の天正十三年に死亡している。以上の理由から最初の象嵌銘を入れたのは、羽柴五郎左尉門衛長重であった可能性が高いと思われる、長秀名も一概には否定出来ない。

 余談の二
次に、丹羽家において象嵌された銘の全文について考えてみる。茎表の銘文は、「羽柴五良左衛門尉長重所持」でほぼ決まりと思うが、茎裏の銘文はどうだっただろうか。茎表の銘字の配分から考え、茎裏の文字数は三文字か四文字位だと思われる。茎尻にわずかに残る象嵌銘の痕跡について、「本阿弥の本の字の第二画の」「うたって」部分ではないかという話を聞いたことがある。しかし、本阿弥家の象嵌銘を調べたところ、その全てに極められた刀工の名が象眼されている。茎面の余地を考えると、「刀工銘」「磨上」の文字、「本阿弥花押」を入れるには無理があり、この説は除外する。結果、ここに象眼されていいた文字は、「青江磨上」または「青江貞次」であり、わずかに残る象眼は青の字の上部であろうと想像する。

 余談の三
文化庁文化財部美術学芸課に問い合わせたところ、登録審査が始まった頃は、二尺以上のものを刀、一尺以下のものを短刀、その中間の長さのものを脇指としていた。法律、規則等に明文化された根拠は無く、現在では目安として六十糎以上を刀、三十糎以上六十糎未満を脇指、三十糎未満を短刀として扱うことが望ましいとした処理方法となっているとの事でした。因みに今、ニッカリ青江が登録審査に出されたとしたら「刀」として登録されるものと思われる。

 参考文献
        「京極丸亀藩道具帳」 「三百藩藩主人名辞典」 「姓氏家系大辞典」
        「日本の美術・日本刀の拵」 「徳川盛世録」 「京極家重代 珥加理刀之記録」