[BACK] [HOME PAGEへ]
                    
日本刀の時代による作風の変化について

   第1期 上古刀時代  平安時代以前
 
    直刀が使用された時代で古墳などから発掘されるものや正倉院に伝わるもの(55口)などが挙げら
    れます。これらの直刀は腰に吊るして徒歩で使用し、斬ることよりもむしろ突くことを重点に作られて
    おります。切刃造りといって、その断面がV字にそぎ取って刃を付けた形のものなどがあり、後年の
    完成された日本刀とは内容を異にしています。

   第2期 平安時代末期〜鎌倉時代初期  約960〜1190年頃

    平安時代は桓武(かんむ)天皇に始まり、公家文化が栄華を極めた時代でした。この時代は太刀様
    式で元幅に比べて先幅が狭く、総体に細身で、腰元で一番反りが強調された腰反り、踏ん張りとい
    って、まるで仁王立ちしたかのような力強い姿のものが流行した。

    主な刀工  渡辺綱が羅生門で鬼を切ったということで名高い鬼切丸の作者  伯耆国安綱、
            備前友成

   鎌倉時代初期 
    藤原時代の貴族政治が崩壊しはじめてから武家政権へと進展するにつれ、刀剣の作風も時代の影
    響を受けて、藤原時代の優雅な作柄に強みが加わり、勇壮な太刀に変わった。

    主な刀工  後鳥羽院御番鍛冶の作品  則宗、国友、則国、

   第3期 鎌倉時代中期  1222〜1277年

    後鳥羽上皇の公卿方の敗北に終わった承久の乱後兵馬の権限は、完全に鎌倉幕府の手中に帰し
     、鎌倉を中心とした武家政権の時代に入り、藤原時代のような優美な作風は失われて、質実剛健
    の鎌倉武士の気風にそう堅実味のある、しかも華々しい刃紋の太刀時代と変わりました。この時代
    も太刀が主力であったが、前期のものに比べると元幅と先幅の差が少なくなり、重ねが厚くなった。
    これは鎌倉武士全盛の時代であったからである。蒙古来襲に備えて太刀は、いっそう豪壮味を増し
     、長寸で反り深く、身幅広く、重ね厚く、平肉付き、猪首切先になった作柄が愛用された。これは当
    時の鍛刀法で堅いものを斬るためにその姿と重さが要求されたためである。

    主な刀工  来国行、二字国俊、長船光忠、長光、一文字

   第4期 鎌倉時代末期  1278〜1333年

    この時代は鎌倉中期のものより更に豪壮な姿へと変化します。これは蒙古襲来による手痛い経験が
    あったからと言われております。例えば、最も損傷のし易い切先が、猪首切先では、一度の戦いで刃
    にこぼれが生ずれば研ぎがきかず、刀全体が駄目になり、また、平肉のついたものでは、切れ味が
    悪く、多数の人を斬るためには、さらに焼き入れ、鍛練法の強化が必要となってきた。これらの欠陥を
    補うため努力したのが、正宗です。

    主な刀工  正宗、兼氏、景光、兼光

    平安時代末期〜鎌倉時代初期の姿が細身で優美であり、これを「たおやめぶり」(女性ぶり)というの
    に対し、鎌倉中期・末期のものを「ますらおぶり」(男性ぶり)と表現します。

   第5期 南北朝時代    1333〜1392年

    この時代はわずか60年ほどであるが、太平記の物語にみられるように朝廷が南(大覚寺)、北(持明
    院)とに分裂し、これに伴う激しい戦いが行われた戦乱の時代です。こういう社会情勢が反映してか、
    日本刀は歴史上最も長大、かつ豪壮な姿となったが、これがこの時代の最大の特徴である。

    主な刀工  秋広、直江志津、

   第6期 室町時代     1394〜1595年

    この時代で特記されることは、その初期にあっては太刀の姿が鎌倉様式にもどること。また末期に近
    づくと、応仁の乱が勃発し、以後戦国の世となるが、室町初期を境として太刀はだんだんすたれ、これ
    に代わって刀が流行するようになります。この頃の刀は打刀(うちがたな)と呼ばれ、その特徴は同じ
    刀であっても寸法がやや短め(2尺)をわずかに越えた程度である点にあります。
    これは戦国時代という特異な時代に発達した剣術などの影響によるもので、このような寸法のもの、
    すなわち片手打ちに適したものが要求されたわけです。片手打ちとは、刀を片手で一気に抜き、その
    瞬間に相手を切り倒す刀の操法をいいます。
    太刀(刃を下にして紐で吊り下げて腰に佩いたもの)から刀(刃の方を上にして大小 2本の刀を差すよ
    うになった。このため、50センチ前後の本作り脇差しが制作されだした。)と変化しました。、

    主な刀工  信国、村正、兼定、兼元、盛光、康光、祐定

   第7期 桃山時代     1596〜1623年

    一般史では豊臣秀吉が政権を握っていた約20年を言うが、日本刀剣史では慶長(1596〜1614)、元
    和(1615〜1623)頃を指します。そしてこの頃のものを慶長新刀と呼んでいます。刀剣史上室町時代
    までのものを(文禄1592〜95まで)を古刀と呼ぶのに対し、慶長より後のものを新刀と呼んで区別して
    います。それは作風、とりわけ地鉄(じがね)にかなりの変化がみられるからです。
    この時代の刀は、身幅が広く、切っ先が延び豪壮なものが流行し、一見南北朝時代の姿に見えます
    が、南北朝が長寸で重ねが薄いのに対して、この時代のものは定寸で重ねもそれほど薄くないところ
    に違いがあります。簡単に言えば南北朝時代のものを常寸に短く切り詰めたような格好となります。

    主な刀工  国広、忠吉、明寿、

    第8期 江戸時代     1624〜1817年 寛永〜正保

    戦乱のない天下泰平な時代で、日本刀は美的要素を追求することになりました。この風潮は桃山時
    代から見られるが、ごの時代にあっては江戸の長曽祢虎徹が数珠刃、大坂の津田越前守助広が濤
    乱刃(とうらんば)という斬新華麗な刃文を創始しました。
    この時代の刀の姿は、前時代のものが身幅が広く、大切先といって切先の大きく延びたものであった
    のに対し、切先は普通程度の大きさの中切先へと変化し反りが少なくなり、総体的にこじんまりとした
    ものに一変するところに特徴があり、このような姿を寛文新刀と呼びます。

    主な刀工  虎徹、真改、助廣

   第9期 幕末時代     1818〜以後  文化、文政以後

    この時代の刀は新々刀とまたは復古刀と呼びます。
    日本刀は鎌倉時代の鍛法に戻るべきであると唱えられ、現実にそのような刀が作られたためにこの
    ような名称がつけられた訳です。
    新々刀期の刀がすべて鎌倉時代の太刀を模したものとは限りません。この時代なりの姿のものも誕
    生しました。その特徴は南北朝や桃山時代のもののように豪壮な姿になる点にありますが、子細に
    は大切先のフクラが枯れるなどの相違があります。

    主な刀工  水心子正秀、源清麿、大慶直胤、

   第10期 明治時代以降  1867〜 慶応3年以降

    15代将軍徳川慶喜の大政奉還により明治時代を迎え、近代日本の基礎が築かれました。しかし日
    本刀にとっては受難の時代となりました。明治4年に髷を落とし刀を帯びないことを自由とした散髪脱
    刀令が交付されたこと、さらに、明治9年には廃刀令が交付され、特別の時以外は刀をさせなくなっ
    たからです。

    主な刀工  月山貞一